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ペルト/鏡の中の鏡
ベンジャミン・ハドソン(ヴァイオリン、ヴィオラ) セバスティアン・クリンガー(チェロ) ユルゲン・クルーゼ(ピアノ)/アルヴォ・ペルトの「鏡の中の鏡」

5月5日。北海道電力泊原発3号機が、定期検査のため運転を停止しました。42年ぶりに国内すべての原発が停止したことになります。福島原発事故の前は37基が運転中だったわけですから、隔世の感があります。
これに対して、電力会社でつくる電気事業連合会の八木誠会長(関西電力社長)は、「できる限り早く原子力を再稼働できるよう最大限の努力を続ける」とコメントしました。
指揮者のアーノンクールは、こう述べているそうです。「18世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると、現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになりはじめた。そして20世紀の人々は、過去の音楽しか聴かなくなった。」(岡田暁生さんの『西洋音楽史』より)
例えば、1808年12月22日。今からみれば、奇跡のような演奏会が開かれていました。その演奏会では、ベートーヴェンの交響曲5番「運命」と6番「田園」が初演され、さらにピアノ協奏曲4番が作曲者本人のピアノで演奏されました。
200年の歳月を耐え抜いた作品群の前では、よほどの音楽でなければ歯がたたないのかもしれません。
そのような中、アルヴォ・ペルト(1935年-)は、新作が待ち望まれている数少ない現代音楽の作曲家です。彼の音楽はシンプルで、静謐な美しさが持ち味です。「鏡の中の鏡」はペルトの代表作。まるで鈴音のような清らかな響きに癒されます。後世に遺ってほしい音楽だと思います。
原発は、ブレーキのない自動車みたいなものです。いったん事故が起これば、誰にも止められません。再稼働になれば、また「想定外」の事故に怯えることになります。
鏡を両合わせすると無限の世界が広がるように、子どもたちにも無限の可能性があります。一部の大人の都合で、子どもたちの未来を奪ってはいけないと思います。

5月5日。北海道電力泊原発3号機が、定期検査のため運転を停止しました。42年ぶりに国内すべての原発が停止したことになります。福島原発事故の前は37基が運転中だったわけですから、隔世の感があります。
これに対して、電力会社でつくる電気事業連合会の八木誠会長(関西電力社長)は、「できる限り早く原子力を再稼働できるよう最大限の努力を続ける」とコメントしました。
指揮者のアーノンクールは、こう述べているそうです。「18世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると、現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになりはじめた。そして20世紀の人々は、過去の音楽しか聴かなくなった。」(岡田暁生さんの『西洋音楽史』より)
例えば、1808年12月22日。今からみれば、奇跡のような演奏会が開かれていました。その演奏会では、ベートーヴェンの交響曲5番「運命」と6番「田園」が初演され、さらにピアノ協奏曲4番が作曲者本人のピアノで演奏されました。
200年の歳月を耐え抜いた作品群の前では、よほどの音楽でなければ歯がたたないのかもしれません。
そのような中、アルヴォ・ペルト(1935年-)は、新作が待ち望まれている数少ない現代音楽の作曲家です。彼の音楽はシンプルで、静謐な美しさが持ち味です。「鏡の中の鏡」はペルトの代表作。まるで鈴音のような清らかな響きに癒されます。後世に遺ってほしい音楽だと思います。
原発は、ブレーキのない自動車みたいなものです。いったん事故が起これば、誰にも止められません。再稼働になれば、また「想定外」の事故に怯えることになります。
鏡を両合わせすると無限の世界が広がるように、子どもたちにも無限の可能性があります。一部の大人の都合で、子どもたちの未来を奪ってはいけないと思います。
モーツァルト/交響曲40番
オトマール・スウィトナー指揮 シュターツカペレ・ドレスデン/モーツァルトの交響曲40番

1984年の映画『アマデウス』のヒットによって、モーツァルト毒殺説が世に広がったように思います。映画のなかでは、ウィーン宮廷楽長サリエーリ(1750年-1825年)による、天才に嫉妬したがゆえの犯行として描かれていました。
現在では、事実無根と考えられているようです。サリエーリは、モーツァルト(1756年-1791年)より6歳年長のオペラ作曲家で、2人の評価は今とは正反対でした。当時は、「モーツァルトがサリエーリを毒殺したなら話は分かる」という状況でした。
モーツァルトは25歳のとき、ザルツブルクのコロレード大司教と衝突し、活動の場をウィーンに移します。当初はモーツァルトも、イタリア人を重用し、年功序列型のウィーン宮廷内で出世する可能性がないことを理解していました。
父宛ての書簡には、「もしボンノが死ねば、サリエーリが楽長になり-サリエーリの代わりに-シュタルツァーが昇進し、シュタルツァーの跡に-誰が入るかまだ分かりません」(1781年4月11日付)と書かれています。
他方で、才能と技量さえあれば出世できるはずだとの気持ちも捨て切れませんでした。モーツァルト父子の矛先は、次第に出世頭だったサリエーリに向けられていきます。「フィガロの結婚」が初演されたとき(モーツァルトは30歳)、サリエーリはすでにヨーロッパ随一のオペラ作曲家として知られていました。その2年後には、ウィーン宮廷楽長に就任し、成功の絶頂期にありました。
しかしモーツァルトの晩年には、2人は和解していた可能性があるそうです。なぜなら、現存するモーツァルト最後の手紙(妻に宛てられた1791年10月14日付書簡)には、サリエーリを「魔笛」上演に招待し、桟敷席で仲良く観賞した様子が述べられているからです(水谷彰良さんの『サリエーリ-モーツァルトに消された宮廷楽長』より)。
泣く子も黙る交響曲40番。モーツァルトが32歳のときの作品です。初演の記録がないため、かつては演奏のあてもなく書かれた曲だとされていました。今では1791年4月16日、17日のウィーン音楽家協会の演奏会で、「モーツァルト氏の新しい大交響曲」がサリエーリの指揮で演奏されたことがわかっています。この大交響曲は、楽器編成からみて40番だと推定されています。
クラシック音楽ファンとしては、やはりお互いの誤解は解けていたのだと思いたくなります。愛聴盤は、オトマール・スウィトナー指揮、シュターツカペレ・ドレスデンのCDです。
4月26日。小沢一郎元代表(民主党)が、政治資金規正法違反の罪に問われた裁判で、東京地裁は無罪を言い渡しました。とはいえ判決では、元秘書が虚偽記載をし、報告を受けた小沢氏も了承していたと認められました。裁判で無罪になっても、政治的・道義的責任は免れないと思います。さらなる真相究明を期待したいです。

1984年の映画『アマデウス』のヒットによって、モーツァルト毒殺説が世に広がったように思います。映画のなかでは、ウィーン宮廷楽長サリエーリ(1750年-1825年)による、天才に嫉妬したがゆえの犯行として描かれていました。
現在では、事実無根と考えられているようです。サリエーリは、モーツァルト(1756年-1791年)より6歳年長のオペラ作曲家で、2人の評価は今とは正反対でした。当時は、「モーツァルトがサリエーリを毒殺したなら話は分かる」という状況でした。
モーツァルトは25歳のとき、ザルツブルクのコロレード大司教と衝突し、活動の場をウィーンに移します。当初はモーツァルトも、イタリア人を重用し、年功序列型のウィーン宮廷内で出世する可能性がないことを理解していました。
父宛ての書簡には、「もしボンノが死ねば、サリエーリが楽長になり-サリエーリの代わりに-シュタルツァーが昇進し、シュタルツァーの跡に-誰が入るかまだ分かりません」(1781年4月11日付)と書かれています。
他方で、才能と技量さえあれば出世できるはずだとの気持ちも捨て切れませんでした。モーツァルト父子の矛先は、次第に出世頭だったサリエーリに向けられていきます。「フィガロの結婚」が初演されたとき(モーツァルトは30歳)、サリエーリはすでにヨーロッパ随一のオペラ作曲家として知られていました。その2年後には、ウィーン宮廷楽長に就任し、成功の絶頂期にありました。
しかしモーツァルトの晩年には、2人は和解していた可能性があるそうです。なぜなら、現存するモーツァルト最後の手紙(妻に宛てられた1791年10月14日付書簡)には、サリエーリを「魔笛」上演に招待し、桟敷席で仲良く観賞した様子が述べられているからです(水谷彰良さんの『サリエーリ-モーツァルトに消された宮廷楽長』より)。
泣く子も黙る交響曲40番。モーツァルトが32歳のときの作品です。初演の記録がないため、かつては演奏のあてもなく書かれた曲だとされていました。今では1791年4月16日、17日のウィーン音楽家協会の演奏会で、「モーツァルト氏の新しい大交響曲」がサリエーリの指揮で演奏されたことがわかっています。この大交響曲は、楽器編成からみて40番だと推定されています。
クラシック音楽ファンとしては、やはりお互いの誤解は解けていたのだと思いたくなります。愛聴盤は、オトマール・スウィトナー指揮、シュターツカペレ・ドレスデンのCDです。
4月26日。小沢一郎元代表(民主党)が、政治資金規正法違反の罪に問われた裁判で、東京地裁は無罪を言い渡しました。とはいえ判決では、元秘書が虚偽記載をし、報告を受けた小沢氏も了承していたと認められました。裁判で無罪になっても、政治的・道義的責任は免れないと思います。さらなる真相究明を期待したいです。
ハイドン/エルデーディ弦楽四重奏曲集
ライプツィヒ弦楽四重奏団/ハイドンの弦楽四重奏曲76番「五度」、77番「皇帝」、78番「日の出」

4月16日、トンデモナイ事件が起きてしまいました。訪米中の石原慎太郎東京都知事が突如、「尖閣諸島を東京都が買い取る」と発言しました。
これに対して、北橋健治北九州市長は、「議会がまったく知らないことを外国の地で、しかも日本全体に関わる問題について発言されたことは、私の発想ではいかがなものかと思う」と述べました。これが普通の感覚だと思います。
ヨーロッパ音楽史上の頂点は、ハイドン(1732年-1809年)、モーツァルト、ベートーヴェンと続く古典派時代ではないでしょうか。
古典派のエッセンスは、ソナタ形式にあると思います。ソナタ形式を簡単にいえば、「音楽による議論」ということになるそうです。2つの主題が対話を繰り返しながら、最後には見解の一致をみる。まるで、人間社会の縮図のようです。このソナタ形式を確立したのが、ハイドンでした(岡田暁生さんの『西洋音楽史』より)。
ハイドンは、人生の半分を宮廷音楽家として過ごしています。いわば、フランス革命前夜の音楽家でした。特に、ハンガリーの大貴族エステルハージ家には30年近く仕えました。
エステルハージ候は、今では廃れてしまったバリトンという弦楽器を好んだらしく、ハイドンはバリトンのための室内楽作品を160曲以上も書き残しています。その他にも、交響曲や教会音楽、オペラなどの作曲が課されていました。
他方でハイドンは、エステルハージ候から命じられてもいない弦楽四重奏の作曲に情熱を傾けました。例えば、モーツァルトが賞賛したロシア弦楽四重奏曲集などは、宮廷のためではなく、出版を目的につくられています。
当時は市民階級の経済力が増し、かつて貴族が独占していた音楽を、一般の市民も家庭で演奏して楽しむようになっていました。ハイドンは宮仕えをしながらも、無意識のうちに時代の流れを感じ取っていたのかもしれません(中村孝義さんの『室内楽の歴史』より)。
エルデーディ弦楽四重奏曲集(6曲)は、このジャンルではハイドン最後の作品集です。なかでも、76番「五度」、77番「皇帝」、78番「日の出」は名曲として親しまれています。愛聴盤は、ライプツィヒ弦楽四重奏団のCDです。
尖閣諸島問題は、国際法にもとづいて、国が外交で解決すべきものだと思います。議論もせずに、いきなり東京都が買い取るというのでは、混乱を招くだけだと思います。

4月16日、トンデモナイ事件が起きてしまいました。訪米中の石原慎太郎東京都知事が突如、「尖閣諸島を東京都が買い取る」と発言しました。
これに対して、北橋健治北九州市長は、「議会がまったく知らないことを外国の地で、しかも日本全体に関わる問題について発言されたことは、私の発想ではいかがなものかと思う」と述べました。これが普通の感覚だと思います。
ヨーロッパ音楽史上の頂点は、ハイドン(1732年-1809年)、モーツァルト、ベートーヴェンと続く古典派時代ではないでしょうか。
古典派のエッセンスは、ソナタ形式にあると思います。ソナタ形式を簡単にいえば、「音楽による議論」ということになるそうです。2つの主題が対話を繰り返しながら、最後には見解の一致をみる。まるで、人間社会の縮図のようです。このソナタ形式を確立したのが、ハイドンでした(岡田暁生さんの『西洋音楽史』より)。
ハイドンは、人生の半分を宮廷音楽家として過ごしています。いわば、フランス革命前夜の音楽家でした。特に、ハンガリーの大貴族エステルハージ家には30年近く仕えました。
エステルハージ候は、今では廃れてしまったバリトンという弦楽器を好んだらしく、ハイドンはバリトンのための室内楽作品を160曲以上も書き残しています。その他にも、交響曲や教会音楽、オペラなどの作曲が課されていました。
他方でハイドンは、エステルハージ候から命じられてもいない弦楽四重奏の作曲に情熱を傾けました。例えば、モーツァルトが賞賛したロシア弦楽四重奏曲集などは、宮廷のためではなく、出版を目的につくられています。
当時は市民階級の経済力が増し、かつて貴族が独占していた音楽を、一般の市民も家庭で演奏して楽しむようになっていました。ハイドンは宮仕えをしながらも、無意識のうちに時代の流れを感じ取っていたのかもしれません(中村孝義さんの『室内楽の歴史』より)。
エルデーディ弦楽四重奏曲集(6曲)は、このジャンルではハイドン最後の作品集です。なかでも、76番「五度」、77番「皇帝」、78番「日の出」は名曲として親しまれています。愛聴盤は、ライプツィヒ弦楽四重奏団のCDです。
尖閣諸島問題は、国際法にもとづいて、国が外交で解決すべきものだと思います。議論もせずに、いきなり東京都が買い取るというのでは、混乱を招くだけだと思います。
バッハ/無伴奏チェロ組曲
トゥルルス・モルク/バッハの無伴奏チェロ組曲

バッハ(1685年-1750年)の再婚相手は、16歳年下のアンナ・マグダレーナ(1701年-1760年)でした。彼女については資料が少なく、その人物像はよくわかっていません。
ただ、彼女のものと伝えられる遺品のなかから、金属製の「指貫」が見つかっています。指貫は、縫い物をするときに針の頭を押すための道具で、指先にかぶせる帽子のような形をしています。
当時のライプツィヒには、棺に指貫をいれる風習はなかったので、この指貫がアンナ・マグダレーナにとって特別な意味をもっていたことが窺われます。
当時、楽譜の破れは、糸と針で縫い合わせていたそうです。もしかしたら、アンナ・マグダレーナはこの指貫を使って、痛んだり、破れたりした楽譜を繕っていたかもしれません。また、次女の職業は「縫い子」でした。母から縫い物の技術を受け継いだのかもしれません。
アンナ・マグダレーナは、夫の作品を数多く写譜したことでも知られています。バッハの自筆譜は、幾何学模様のような美しさにあふれています。ですが、アンナ・マグダレーナの写譜も負けていません。無伴奏チェロ組曲は、彼女の写譜が、長い間バッハの自筆譜だと考えられてきました。
これらのエピソードからは、夫婦の二人三脚の姿が伝わってくるようです。愛聴盤は、トゥルルス・モルクのCDです。
アンナ・マグダレーナの遺品には、他に「指輪」がありました。かつては、第二次世界大戦の爆撃で消失したと考えられていましたが、その後の研究で、1944年に盗難にあったことが判明しています。いずれにしても、戦時下の混乱のなかで、彼女の思い出は失われてしまいました(マリーア・ヒューブナー編、伊藤はに子さん訳の『アンナ・マグダレーナ・バッハ-資料が語る生涯』より)。
4月11日。国が3年前から、外交や防衛などの機密を扱う国家公務員に対して、本人の同意なしに身辺調査を行っていたことがわかりました。対象はほぼすべての省庁にわたり、約5万3000人が「適格者」とされ、不適格とされた公務員もいるとみられています。
少し前には、自衛隊が、イラク派兵反対集会の参加者を監視するという事件がありました。「氏名や職業、所属政党など思想信条に直結する個人情報まで収集してい」ました(仙台地裁2012年3月26日判決)。
暗い時代に戻りつつあるようで、背筋が寒くなります。

バッハ(1685年-1750年)の再婚相手は、16歳年下のアンナ・マグダレーナ(1701年-1760年)でした。彼女については資料が少なく、その人物像はよくわかっていません。
ただ、彼女のものと伝えられる遺品のなかから、金属製の「指貫」が見つかっています。指貫は、縫い物をするときに針の頭を押すための道具で、指先にかぶせる帽子のような形をしています。
当時のライプツィヒには、棺に指貫をいれる風習はなかったので、この指貫がアンナ・マグダレーナにとって特別な意味をもっていたことが窺われます。
当時、楽譜の破れは、糸と針で縫い合わせていたそうです。もしかしたら、アンナ・マグダレーナはこの指貫を使って、痛んだり、破れたりした楽譜を繕っていたかもしれません。また、次女の職業は「縫い子」でした。母から縫い物の技術を受け継いだのかもしれません。
アンナ・マグダレーナは、夫の作品を数多く写譜したことでも知られています。バッハの自筆譜は、幾何学模様のような美しさにあふれています。ですが、アンナ・マグダレーナの写譜も負けていません。無伴奏チェロ組曲は、彼女の写譜が、長い間バッハの自筆譜だと考えられてきました。
これらのエピソードからは、夫婦の二人三脚の姿が伝わってくるようです。愛聴盤は、トゥルルス・モルクのCDです。
アンナ・マグダレーナの遺品には、他に「指輪」がありました。かつては、第二次世界大戦の爆撃で消失したと考えられていましたが、その後の研究で、1944年に盗難にあったことが判明しています。いずれにしても、戦時下の混乱のなかで、彼女の思い出は失われてしまいました(マリーア・ヒューブナー編、伊藤はに子さん訳の『アンナ・マグダレーナ・バッハ-資料が語る生涯』より)。
4月11日。国が3年前から、外交や防衛などの機密を扱う国家公務員に対して、本人の同意なしに身辺調査を行っていたことがわかりました。対象はほぼすべての省庁にわたり、約5万3000人が「適格者」とされ、不適格とされた公務員もいるとみられています。
少し前には、自衛隊が、イラク派兵反対集会の参加者を監視するという事件がありました。「氏名や職業、所属政党など思想信条に直結する個人情報まで収集してい」ました(仙台地裁2012年3月26日判決)。
暗い時代に戻りつつあるようで、背筋が寒くなります。
ヘンデル/合奏協奏曲集
マックス・ポンマー指揮 ライプツィヒ新バッハ合奏団/ヘンデルの合奏協奏曲集作品6

ヘンデル(1685年-1759年)は、バッハと同じ年に、中部ドイツのハレに生まれました。今ではバッハの陰に隠れがちですが、生前はバッハをはるかに凌ぐ名声を得ていました。この2人は何かと対称的です。
バッハが生涯にわたってドイツの北東部から離れなかったのに対して、ヘンデルはローマやヴェネツィアで修行し、ハノーファー、ロンドンなど国境を越えて活躍しました。
当時の作曲家の出世コースは、音楽の中心地イタリアで売れっ子になるか、有力な宮廷に仕えるか、オペラ作曲家として成功するかのいずれかでした。バッハはどれとも無縁でしたが、ヘンデルはすべてを手にしています。
バッハはヘンデルを尊敬していたようで、彼に会おうと2度試みています。最初は1719年(ケーテン宮廷楽長時代)。ロンドンから生まれ故郷に一時帰国したヘンデルを訪ねていきましたが、ヘンデルはすでに去った後でした。
次は1729年(ライプツィヒ時代)。病身だったバッハは、短期帰国したヘンデルをライプツィヒに招こうと、長男ヴィルヘルム・フリーデマンを使者として送りました。しかしヴィルヘルム・フリーデマンは、ヘンデルから病気の母が家にいることを理由に、面会を断られています。当時のバッハとヘンデルの名声には、それほどの隔たりがありました(加藤浩子さん、若月伸一さんの『バッハへの旅』より)。
今からみれば、バロック音楽=バッハ=宗教曲というイメージがあります。ですが、バロック時代というのは、音楽が「神への捧げ物」から「王権を飾り立てるもの」に変質していった時代でした。バッハの音楽は、同時代人から古風とみなされていました。
宮廷では、明るく優美な曲がもてはやされます。その意味では、ヘンデルはバロック時代のもっとも典型的な作曲家でした。彼の作品には「水上の音楽」や「王宮の花火の音楽」など、華やかな曲が目白押しです(岡田暁生さんの『西洋音楽史』より)。
合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)は、バロック時代によく用いられた音楽形式だそうです。今となっては、バッハとヘンデルの名声は逆転してしまいましたが・・・。ヘンデルの合奏協奏曲集は、彼の代表作といってもよいくらい素晴らしい曲です。愛聴盤は、マックス・ポンマー指揮、ライプツィヒ新バッハ合奏団のCDです。
4月5日、藤村修官房長官は、大飯原発の再稼働に「地元の同意は必要ない」と発言しました。こちらは、時代が移り変わっても、厳しい評価は変わらないと思います。

ヘンデル(1685年-1759年)は、バッハと同じ年に、中部ドイツのハレに生まれました。今ではバッハの陰に隠れがちですが、生前はバッハをはるかに凌ぐ名声を得ていました。この2人は何かと対称的です。
バッハが生涯にわたってドイツの北東部から離れなかったのに対して、ヘンデルはローマやヴェネツィアで修行し、ハノーファー、ロンドンなど国境を越えて活躍しました。
当時の作曲家の出世コースは、音楽の中心地イタリアで売れっ子になるか、有力な宮廷に仕えるか、オペラ作曲家として成功するかのいずれかでした。バッハはどれとも無縁でしたが、ヘンデルはすべてを手にしています。
バッハはヘンデルを尊敬していたようで、彼に会おうと2度試みています。最初は1719年(ケーテン宮廷楽長時代)。ロンドンから生まれ故郷に一時帰国したヘンデルを訪ねていきましたが、ヘンデルはすでに去った後でした。
次は1729年(ライプツィヒ時代)。病身だったバッハは、短期帰国したヘンデルをライプツィヒに招こうと、長男ヴィルヘルム・フリーデマンを使者として送りました。しかしヴィルヘルム・フリーデマンは、ヘンデルから病気の母が家にいることを理由に、面会を断られています。当時のバッハとヘンデルの名声には、それほどの隔たりがありました(加藤浩子さん、若月伸一さんの『バッハへの旅』より)。
今からみれば、バロック音楽=バッハ=宗教曲というイメージがあります。ですが、バロック時代というのは、音楽が「神への捧げ物」から「王権を飾り立てるもの」に変質していった時代でした。バッハの音楽は、同時代人から古風とみなされていました。
宮廷では、明るく優美な曲がもてはやされます。その意味では、ヘンデルはバロック時代のもっとも典型的な作曲家でした。彼の作品には「水上の音楽」や「王宮の花火の音楽」など、華やかな曲が目白押しです(岡田暁生さんの『西洋音楽史』より)。
合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)は、バロック時代によく用いられた音楽形式だそうです。今となっては、バッハとヘンデルの名声は逆転してしまいましたが・・・。ヘンデルの合奏協奏曲集は、彼の代表作といってもよいくらい素晴らしい曲です。愛聴盤は、マックス・ポンマー指揮、ライプツィヒ新バッハ合奏団のCDです。
4月5日、藤村修官房長官は、大飯原発の再稼働に「地元の同意は必要ない」と発言しました。こちらは、時代が移り変わっても、厳しい評価は変わらないと思います。







